昭和44年9月19日 久富正義氏五十日祭
信心をさせて頂いて何を頂き何を分らせて頂くかというと、神様を分らせて頂くのである、神様の思いを分らせて頂くのであり、神様のお働きを身近に日々感じさせて頂く事が信心です。信心をさせて頂くと、信心をさせて頂いて何を頂くかと。勿論おかげを受けるという事ですけれども、そのおかげを受けると言う事はこれはごりしょう、ご利益のことです。ですからそのご利益を受けるという事だけが信心ではなくて、信心はね神様を分かるという事。その神様の心を分り、神様の心を頂くということ。それが、信心です。ですから信心をしておりましても、まだ神様が分らず、神様の心が分らず、いわゆる神様が求めて下さるどうぞ信心しておかげを受けてくれよと仰る、おかげを受けておらない人がどのくらい沢山おるか分らんと思います。誰でも始めから神様が分る人はありません。今日お祭りを受けられた御霊様なんか、その御霊様の妹、婿にあたられます、久富勇さんが、お導きをなさって、おかげを受けられた御霊様ですが、とうとう、生前は神様が分らんままお国替えを頂いたという感じ。神様が分られんまんまにお国替えを頂かれた。そして初めて、御霊様になられてから、しかも今日のお祭りを頂かれてから、いよいよ神様が分られたという感じ。私は今日のようなお祭りは始めてですね。遺族の方達が、御霊様のお祭りをしてくれというのは、もう沢山致してまいりましたけれども、直接の遺族ではないご兄弟が、今日、今日のお祭りが丁度亡くなられてから五十日にあたる。ですから五十日祭、それに併せてやはり、まず、( ? )今のお祭りを頂きますとただ一つのお祭りでございましたけれども、丁度私が玉串を奉らせて頂く前までが洗礼のお祭りであったという感じでしたですね。御霊様がやはり金光大神のお取り次ぎによって、金光大神お支配ましますところの天地の親神様のお働きの中に、御霊様のいわば、御霊の世界に籍を置きなさったというわけですね。御霊の世界に籍をおかれた。それから、五十日祭。これは今まで仏教でも四十九日は生仏と申しますように、御道の信心でもそういう御霊様を新御霊と申し上げます。その新御霊から、御霊様の列に加えられる事が出来たそのお導きを今日受けられたわけでございます。
生前、病気という事によってお導きを受けられたけれども、神様を分らんなりにお国替えになったけれども、ね、その御霊様をまた追い討ちするように、ね、それをまた追いかけるように、御霊様になられてからまた、導かれたというのが今日のお祭りです。もう本当にこんな金光様の御信心がこの行き届かなければいかない、実意でなからなければいけないということは酷だと思うですね。生前お導きしたばってんとうとう助かりきりなさらじゃった。そんなら御霊様になられてからでも、どうでも助かってもらわなければならんというお祭りがこのお祭り。ね。ですから、生前お導きをして、本当にお導きが出来ないままに、お国替えになられたそのお国替えになられた御霊様を追いかけるようにして、どうでも助かってもらわなければならんというて、今日のお祭りをなさった御霊様をまたお導きになる。このお導きを受けて初めて御霊がですね、初めて御霊が、御霊の世界に入って魂の世界に入って、神様のおかげを受けなければ生きても死んでも立ち行かないのだという事を初めて分ったという感じのお祭りでした。私はそこから色々と教えられる事があるわけでございます。信心をしておるけれども、私共はどこまで神様を頂いておるだろうかという事を改めて思うて見なければいけない。
お礼をもうさせて頂いておりましたら、あの、蕨の、蕨のようなのし、蕨のしというのがありましょう。のしをつける、あれを蕨のしと申します。蕨のしを頂くのですよ。そして捧げあうという事を頂くのですよね。例えばなら、生前人間関係でいうなら、妻は夫、夫は妻へ捧げあう生活。これが本当の生活。ね、身も心も全て捧げる。夫に。ね。または妻に捧げる、お互い捧げあうという生活。親が子が、例えば商売人ならばお客さんに捧げる。その真心に触れてまた捧げる。捧げあう、あいよかけよという言葉を御道で申しますよね。私はその捧げ合うという事なんですよ。ね。捧げあう生活。はあ拝み合いの生活が出来ないはずはありませんですね。捧げ合う。ね。ところがその捧げる、例えばなら新婚なら新婚の場合はお互いは身も心も体も捧げあっておる。それが段々当たり前のことのようになってくる。いわば、したら次に頂きます事がね、その蕨がこうやって開いていくところを頂く。あれは蕨を開いたらあれはしだになりますよね。ね。しだごろとも申します。この辺ではその蕨が開いたらしだになる。そういう捧げ合いというような思いがねそれが当たり前の事のようになったらしだになる。しだとというのは死んだ田という風に頂かなければいけんだろう。いくら種をまいてもいくら種をまいても、いわばふもうの地である。芽が出らない、実らない、花が咲かないという事になってくるのです。私今日この事をお互いの信心にもよくよく頂かなければならないと思うのです。